「奇譚」って普通、糸偏の無い「奇」ですよね。
家守綺譚
物語の主人公、物書きをして生計をたてている綿貫征四郎は、学生時代に湖でボートを漕いでいる際に行方不明になった親友・高堂の実家に「家守」として住まうことになる。ある雨の晩、床の間の掛け軸から高堂がボートを漕いでやってくる。
ー サルスベリのやつが、おまえに懸想をしている。
ー ……ふむ。
ー 木に惚れられたのは初めてだ。
ー 木に、は余計だろう。惚れられたのは初めてだ、だけで十分だろう。
死んだはずの友人との会話が何と楽しそうな事。
河童に人魚、狐に狸、仔竜に子鬼、物語冒頭のサルスベリ、竹の精、動物から植物、天地自然の摩訶不思議な「気」と主人公の日々がテンポ良くつづられていきます。どんなテンポかというと‥
ー 「小鬼を見ましたよ」「ああ、啓蟄ですからね」といった感じ(笑)
四季折々の変化や、昔ながらの生活や風景。色や香りまで感じられる。
あぁ‥日本の国ってこんなにも美しいんだ。日本語の表現ってこんなにも美しいんだ。
って本気で感じます(^∇^)風流っていうのかしら‥
美しいといえば、「檸檬」という話の中で主人公綿貫と少しだけ顔見知りの少女とがゲーテの詩を暗誦するシーンが本当に美しい。少しだけ顔見知りというのは名前は知らないけど挨拶するご近所さんみたいな‥
庭にダリアが咲いている家に住んでいるので「ダァリヤの君」
湖の話からの湖の周りには龍にまつわるものが多いのだというくだりから、いきなりゲーテですよ。
ー 「いと年経る龍の ところ得顔に棲まい」
ー 私は嬉しくなった。ゲーテだ。ミニヨンだ。
と二人で暗唱。
この「私は嬉しくなった」っていう感じ。
出会いがあってだんだん親しくなっていく過程でマニアックな部分に共通点があると一気に距離が近くなる感じ‥なんか美しいでしょ。素敵でしょ。
小難しい文学じゃなくてもアニメとか好きな歌とか共通する部分みつけた時ってなんか暖かい空気に包まれるというか‥
話がそれましたが、
ダァリヤの君もまた、友人を亡くしたばかりなのだけど「かわいそうだと思わないでください。佐保ちゃんは春の女神になって還るってくるのだから」なんてことを真顔で言う。
ー 「僕の友達も湖で行方不明になりましたが気の向いたときに還ってくる」
ー 「ええ、そう、そう言う土地柄なのですね。」
おそらくこの辺りになるともう物語にどっぷり浸かっているので、「ここはツッコミどころですか?」なんて事にはなりません。
‥多分。
奥深い独特の死生観だとか、死の世界とか、あの世この世がふわりと共存してる。心地良い浮遊感。まるで湖の中でふわふわ浮かんでいるかの様に・・・
「胡蝶の夢」は、荘子が夢の中で蝶になってしまったのか、自分はもともと蝶であって、今夢を見て人間になっているのか区別がつかなくなってしまうお話。
荘子と蝶は確かに、形の上では区別があるはずだけれども、主体としての自分には変わりは無く、これがものの変化というものである。・・・だそうですd( ̄  ̄)
主人公綿貫もまた、自分が夢の中でヤモリになってしまったのか、もともとヤモリ(家守)なのかという場面があって、ここでも友人高堂とのやり取りが笑える‥いや、考えさせられる。
あっ、冒頭の糸偏のある「綺」と無い「奇」の事。
奇譚だと単に奇妙な話、不思議な話なのだけど「綺」は美しいという意味を持つのでやはり「美しい話」って事なのかな。
これを書いたあと、またまた読み返したくなりました。そんな小説です。